2012年10月14日日曜日

例えばノアの方舟

ノアの方舟の方舟の原文は、年代が下ってモーセが赤子としてナイル川に籠に入れられ流され難を逃れましたが。その籠と同じ単語でした。と言う事は、ノアの方舟のエピソードはモーセが民を引き連れてエジプトを脱出するストーリーにリンクしながら伏線を張っていたようです。ノアが逆境にあったときそれから脱出する方法はモーセのエジプト脱出へと引き継がれているように見えます。【追加】ノアの物語は純粋に全生物の生存の目的を語っているだけである。何にも前に生存のが優先するとの主張があるのです。出エジプトの意味は命辛々だったと言うことはノアの時と同様であると言うことでしょうか?ヘブライ人達は何もなし得てないと言う状態だったのでしょうね?

例えばバベルの塔の物語

トーラーはトーラーなりの構造で示したかったようです。人に堂々と生きなさいと言っています。それを言葉、概念で直接言うのではなく、ある概念を巧妙に否定する方法で宣言、主張するのです。例えばバベルの塔の物語は塔を作ったことと人が散らされたことの因果関係を述べたものではないのです。大事な点は、人が塔を作ることによって神に近づこうと目論んだことに対して否定したのです。神は天には居りませんよ。高さを目指しても君らの力にはなりませんよ。お門違いもいいところですよ!と言われてるようなものです。警告だったのです。そう言う方法で聖書は構造を作って語りかけているのです。そう言う手法はこれから聖書をもっと読み込んで行くと見つかると思います。自分から期待しているところです。神は、世界創造の仕事を自らの発意に基づいて行い、六日間働き、最後の7日目に出来上がった作品を見て何と良い事かと満足しました。これは誰の為でも無い、自分の仕事をしたと言う事です。ところがヘブライ人たちがエジプトで奴隷生活に身をやつしたこととの落差に或主張を見出すことが出来そうです。エジプトでの奴隷生活と言うのは人の本来の生き方とはかけ離れていた為モーセはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を思い起こさせて民を鼓舞するわけです。物語ではモーセを通して神は民に伝える形にしています。本来の労働、生きるとは何かを思い起こさせようとしています。聖書を読んでもどこからどこまでが歴史的事実であるのか、フィクションなのかは解りません。宗教的な主張に従ってまとめられていると言うしかありません。

2012年10月13日土曜日

最近の会話

神の世界の創造というのは一応、自ら目論んで分析し、又は分析して目論んで、創造してその結果満足するというサイクルを作るんですね!? 古代の書籍トーラーは古代人の古風な且つ稚拙な思考枠から抜け出て居ないと言うレベルのものかといえば、私はどうもそれは違うような気がしてます。トーラーを維持した個人乃至集団はかなり洞察力の優れた、構想力に優れた存在だったと考えています。洞察力を何がしかの構想力に基づいて宗教的に翻訳したのがユダヤ教と言う事のようです。今の研究者は言葉=ヘブライ語文脈を追いかけて、ストーリーの骨格とか構造を解明する態度に欠けるところがあると感じます。構造解析は古代人の考察の中で極めて効率の良い秘匿方法である訳です。秘匿とは言いたくないと言うことではなく、逆に最も重要事項であると言う事の為にした事である思います。重要事項であった為に秘匿したのではないでしょうか。
最近、マルクス資本論を読みたくなりましたので娘にしまってあったところを聞いて出してもらう依頼をしたところです。マルクスは想像以上にトーラーを下敷きにしているのではないかと思い至ったのです。トーラーは明らかに労働を特別な位置付けをしています。また、トーラーの中の出エジプト記という項目はイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放し脱出するストーリーですが、その自立の過程がまるで階級闘争そのものとして描かれるのですが、日本の左翼は聖書なんか殆んど読まなかったでしょうから、どこがどう関連しているか想像もつかなかったのではないでしょうか。トーラーの冒頭は、神が主人公ではありますが、やった事と言えば、純然たる労働そのものです。労働の理想型とでも言っても良いかと思いますが。そんなわけで、薄々は分かっていたのですが、どう関連してるか調べます。マルクスの祖父は確かユダヤ教のラビだった筈なので。マルクスがプロテスタントに改宗したのは6〜7才くらいの頃ですが、理由は解りません。自分から洗礼を受けたとは考えられませんが、プロイセンという土地、国、時代的背景もあったのでしょうか。知りたいところではあります。
宗教は麻薬と言う理論?は中国共産党がそのまま剽窃、利用してチベットやウイグルの弾圧を行なってますね。毛沢東がチベットを解放すると宣言した理屈はキリスト教の福音主義そのままです。余計なお節介でしかありません。 企画から労働の一貫性が眼目のトーラーなので正に自営業者の為の宗教と言えるかもしれません。
階級形成とは労働の贖いと言っても良いくらいです。

宗教お宅たちは神様が存在するなどの証拠を例示すると、ああ!やっぱり神様は居るんだ!とか言って、歓びます。そういうところが妄信性のキーワードになってしまうのかと思います。また、某君のような頭の錆付いた人間は、神なんて居ないんだから信じないよ!と到って単純です。普通の人間ではありますが。思考は限りなく続くのだという事には耐えられない頭脳を持っています。居る居ないことを根拠に神を語ってるんじゃ無いんですけどね。
マルクスも子供の頃にプロテスタントに改宗してるので、旧約聖書として読んでいるのは間違いないでしょうが、何処まで読み込んでるかですよね!? 資本論にトーラーの筋目を読む!果たして巧く行くかは解りません。私は当てずっぽうなところがありますので、一寸怖いです。何故当てずっぽうなのかと言いますと、自分ではハングリーな「感」とでもいうか、いつも思考の続きを考えたいと思ってるんでしょうね。
ユダヤ人は安息日を守ってきたと言うことを聞いた事がありますでしょうか?日月火水木金と働いて労働して最後の七日目土曜日に休むと言う事ですが、トーラーで神が創造の行為とそれに満足して休んだと云うエピソードを記憶して宗教的に定式化したものですが、私はこれはユダヤ人特有のジョークだと思ってます。創造=労働の方がどちらかと言えば重要な筈なんですが、休んだ安息日を一義的に記念すると云うネガポジの関係にして記念するんですね!? 神名を門外不出にしたところ自分達もなんだったか忘れてしまったと言う事にした理由としてモーセと云う人物に託した契約でみだりに神の名を唱えるべからずという項目がある為としてますが、これも明らかにジョークですね。意味を辿って行けば解る筈のものなんです。但し、かなり重要で本質的な意味を担ってるので、秘匿に値するものなんですが。YHVHは固有名詞として位置付ける方がいますが、それ以上の極秘事項です。どうしても漏れ出してしまうのならあのモーセに伝えた通りだと言えば納得して貰えますかと言う事でしょうか。あれこれ喋られては困ることなんですよ。民族的な財産ということなんです。 マルクスの労働の定義はプロテスタンティズムの枠で考えられている可能性はありますね。何故改宗したのか?父親の影響があったんでしょうね。プロシアの国情にもよるかもしれませんね。亡くなった廣松渉あたりが詳しそうですが… ユダヤ人は十人集まれば十個の意見。誰もがユダヤ人でありながら各々は他の同胞と同じ意見を持つことを酷く嫌います。この性格は自分が世界の創造に参加しているという意識が根強くあるからです。ひとと同じ考え方をするのは恥ずべき事と思ってるんですね。何をどうしようとやってる事は自信たっぷり堂々と、俺は!俺は!で喧々諤々、絶対に譲らない!譲るもんか!で纏まるものも纏まりません。それも、皆真剣なんですよ。冗談で茶化す余地なんかない。 考えること、企てること、行動することは同じジャンルのことなんですね。世界の豊富化に参加してることになってる訳です。そして最後に作ったら満足することというのも必ず入ってます。 世界(地)というのはまず渾沌であり、分析して企画し、創造して満足するというサイクルを作るんですね!? もし、今度の資本論などを読んだ後にフォイエルバッハ等も手を伸ばした上で、やろうと思い付いてることは、ユダヤの先人は疎外の概念を既に知っていたらしい事を調べたいと思っています。寧ろそれがテーマだったかも知れないのです。何故神の登場か?神は「完全労働、非疎外労働(私の造語)」の象徴なんですよ!?無疎外労働と言い換えても良いんですが。 万が一、ホテルで腹上死トラブルが発生した時は遺体をホテルから運び出して路上に行倒れのように放置してから関係者に通報すると聞いたことがあります。この方が家族などがショックを受けにくい配慮と聞きました。 もし、力付きたら空報でも打ってから倒れて下さい。枯れ葉の一枚でも島村兄の上に舞い降りるようにと祈りつつ黙祷を捧げさせていただきます。でも、来年同じことが出来るとは限りませんよ!程々にして下さい。 昨夜、資本論11分冊のうち欠けていた第一分冊を娘が取り寄せ購入してくれまして、全巻揃いました。明日から資本論読破敢行スタートです。 島村兄は淫行と謙遜して言われますが、トーラーに登場する神と島村兄との共通点があります。それは敢えて名付けるならば非疎外労働とも言うべきものです。非疎外労働はその過程のうちどこが欠けても立ちどころに疎外的状態に陥ります。これは、大袈裟でも何でもありません。どうか統合力を高めてお励み下さい。 トーラーには非疎外労働の象徴として創世記冒頭の「神」を置き、疎外された労働の象徴としてエジプトで奴隷に転落した「イスラエルの民」を置いてるわけですね!?自己の充足感なしにどんな労働も完結しません。次回に備えて休養を十分お取りください。 トーラーに同じものが見つかることを期待もしませんが、原初的な根源的な警告音の響きが聴けたらと思い、更に従来の左翼が感じていた疎外論も含めて批判的に修正加工出来れば、解放の論理の新たな修正が出来ないものかと夢想します。 その為には、日本の思想が行き詰まってる状態を左右から打開したくもあります。日本の状況は余りにも遅れていると言うか発想が貧弱です。一人の天才に、一つの党派に押し付けるのは不幸と言うしかありません。と、感じます。 たったこの前の戦争敗北に対する共有感を持てないのが日本人なんですよねえ!国家と構成員との関係がヨーロッパアメリカ人の捉え方とだいぶ違ってたようですね。企業の所属感にも諸に現れてしまってますが、これなんかも日本では疎外は感知出来ない仕組みになってるんですかねえ!所属感の方が甘く居心地が良く優先してるようです。折角、疎外と翻訳された概念を有したのですから出所を良く理解して定着させたいものです。

2012年10月8日月曜日

イヴ(ハヴァー)は何が間違ったのか?

大事な事すら人に伝えられない事か
口だけで伝える事の不安定さ正確には伝わらないと言う警告か
文字に定着させる為の伏線か
自分の意思が確立出来ないと言う罪悪のことか

トーラーの存在力

トーラーを読むとは、それに対する疑問なくして、表出部分に触れることは出来ません。表出部分とは古代のユダヤ人の先祖たちの一番言わんとしていることに触れることです。そうすると、トーラーにはあちこちに矛盾点が見つかります。何故矛盾点が見つかるのでしょうか?一見、矛盾点と見えることは現在の我々の硬い頭に巣食ってる観念の為かもしれません。或いは古代のユダヤ人の先祖たちが言わんとした事がわからないので、或いは古代のユダヤ人の先祖たちが敢えて注目して欲しい点に当時の知恵に基づいてマーカーをつけたか、或いは意識の儘に綴ったのでしょうか?

2012年10月6日土曜日

階級闘争論と相入れないだろうか?

労働者階級形成とは労働の贖いと言っても良いくらいです。その原型は出エジプト記に見る事ができるかと思います。労働者階級なるものが存在したと言う訳ではなく、労働の形態が余りにも神の意思からかけ離れていたために、モーセによってイスラエルの民が自覚して行く過程が出エジプト記、申命記、民数記である訳です。こんな事言うのは神への冒涜だの声を荒げる輩が出て来そうですが、民の自立には紆余曲折、失敗の連続を潜り抜けなければなりませんが、この為には強い意思と一貫性、決断力、計画性、持続力、組織力そして知恵が必要です。それをモーセがやり遂げた物語ということであるわけです。単なる民族の由来物語、神は存在するのだ式の物語に押し込めるのではなく極めて普遍的な課題を担っているものとして理解されなければならない筈です。民族史の一面性を日本に幾ら当て嵌めたとしても、それからは十分はみ出ししている物語になっていると思います。

2012年10月3日水曜日

秋の夜長に資本論を読まんとす!

秋の夜長に資本論を読まんとす!さて、何処に仕舞いこんだか!資本論は労働の贖いの書なり!神は初めに企て、働きそして満足を得た。エジプトの地では企ての機会を奪われ、満足を得る事は叶わなかった。約束の地で果たすべきことは…

2012年9月30日日曜日

アブラハムとロトについて

選択の自由と言うのは一見自由ではあるけれど、欲望も引き連れて行くことを同時に言ってることなので忘れてはならないことであるようです。この事はアブラハムとロトとの関係にも当てはまるようです。ロトは選択の自由を与えられたのですが、自分の欲望の在り方に気づいてなかったようです。直前で気が付いて助けられますが、/続く

2012年9月27日木曜日

Elohim(複数)の件⑵新たな提案

何故神は複数なのか?は元来そういうものとして有ったと云うのが答えと云うしかないのでしたが、じゃあ何故動詞が三人称、単数なのかという疑問に対しては明確には答えられないけれど、苦しまぎれにはElohimは尊厳の複数論の向うを張って「範疇の複数」という概念を提案します。こう云う例が他にもあると良いのですが、コンコルダンスでは限界があるようなので、もっとトーラーを読まないと分かりません。
「範疇の複数」と言う言い方も若干一神教に擦り寄った表現ですが、この際、神は一つではなかったと言うしかありません。その証拠と言えば、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言う表現が何度も出て来ます.其々に立ち現われた神々だった訳です。この神々は全て一貫性があるのだと言う宗教的な主張、表出であったということです。

骨格を知る

どの様な書籍を読む場合にもその書籍の一字目から最後までソックリ憶えると云う読み方はしないものです。読んだ直後はその様にその通り受け入れるとしてもその後は何か特徴を捉えて永く脳に保存していくでしょう。その特徴とはキーワードを決めて憶えたり構造、物語性、展開を憶えたりしている筈です。後になって細部を思い出したり、読み返して調べたりするものです。ですから、読み手は記述されたものの骨格をも同時に意識しながら読むことになります。そうでなければ、書いてあることがバラバラになって何を言わんとしているか分からないことになります。行間に何も書いてない単なる空白ではない訳です。その骨格を捉えることも読み手の重要な働きになる訳です。

トーラー文学の表現方法の特徴

トーラーは宗教的聖典の位置を占めているものの、伝承文学の彩を濃厚に残したままの文学です。拙速に解釈に走るのを保留してでも文学としての吟味をしておくことの方が豊かな表現力を味わうことができるものです。文学としての味わいを抜きに本当に表現したい部分には辿り着けないものと言えるでしょう。トーラーはトーラーなりの表現技術を持っている筈です。表現技術と言っても仕掛けと言っても良いものです。場合により、トリックと言うべきものもあります。表現したい事が当時の従来の通常の表現技術では追いつかない場合は相当無理をしたのでしょう。

多次元方程式

トーラーの織物は縦糸、横糸の他、斜行する糸もあり織方も様々です。その構成を解きほぐすのはその最初の創世記の宣言文に糸口が文字通りみつけることが出来ます。 創世記冒頭は単なる神の世界創造の物語ではありません。よく考えてみてください。誰がこの世界の始まりを見て来たと言うのですか?子供にしか通用しない話しを大人が真に受けてどうするんですか?子供でもいずれは変だなと思うことです。そこでトーラーを編み出した記者達の気持ちになって何を訴えたかったのかを察してやろうじゃありませんか。世界創造の物語の様に作っておいてそこに仮託して何かを言ってませんか?それ位の知恵は働かせようじゃないですか!?さて、神は最初に何をしたと書いてあるか?その前にこの時の神は複数形Elohimです。一般名称と言えます。次に、従来は「創造した」と訳されているところの目的語は先に天であり、その後に地となっています。日本語訳の多くは天地と一括りに表現している場合が多いと思いますが、配慮の足りない訳と言うしかありません。トーラー記者は明らかに別のものとして表現し、後先を意識しているのに対して、日本語訳では恐らく天地という言い慣わしが元々あったものを杜撰な感覚のままに援用したと云うことでしょう。やはりトーラー記者の意図を推し測る気持ちがないと後代に残すというと云うことが半減してしまうことになるので先立って事を進める者は心しなければならない事だと思います。但、最近は伝統的に「創造した」と訳して来た語をオランダの考古学者の提案により「分けた」と訳す可能性もでてきました。しかし、この問題は決して混乱の原因にはならず寧ろ神の行為として適切であるという整理の仕方も考えられるのです。

2012年9月15日土曜日

バベルの塔試論

バベルの塔の崩壊と人が散らされた事に因果関係があるようにとらわれてしまうと少し見えなくなって来ます。寧ろ、塔と言う高いものを建てると言う物理的な行為を否定されたという点に着眼しなければならないという事ではないでしょうか。神というものはそういったものではないということだったのだと考えておくべきでしょう。だからと言って、神は愛だとか抽象的なものとして主張するものでないことは当然です。。

2012年8月20日月曜日

循環構造

トーラーを含めてタナフ全体は恰も人の体のようです。各々の体の部分が密接に繋がっていて、部分は他の部分を支えて全体が成り立っているという関係にあります。
その典型的な例として、/続く

2012年8月17日金曜日

オーガニック

人は自らのことを直接人に則して直接的に考えれば良いものを、どうもそうは行かないらしいのだ。一つは神を介してもう一つは歴史を介して、更に文学を介して考えて来た経緯もあった。勿論直接的な人間関係を介してでもそうだし、何れにしても何か媒介物があった方がと言うかなければと言った方が良いのか理解するためには良いらしいのだ。ただ、媒介物というのは理解のための手段としてあったのであって、中にはとても実体と言える様なものではないものも混ざっている場合があった訳です。それは太古の人が実体的に考えていた可能性がありそれらを疑問に思ったり否定したりして、更には視点を変更する方にシフトしなければならない場面に遭遇したこともあったでしょう。又、そう言った種類の事なんだけど一寸、正確にはこういう事なんだよと仲間に伝えたかった事もあったのではないだろうか?!

人は有機体ですから、各器官が巧みにお互いの役割を補完しながら全体を構成し、各器官も生きているという力学バランスを形作っています。どの器官を取り出して見る事も出来ますが単なる寄せ集めではない、他の器官を生かす為にその器官が存在するという様に存在しているのです。
何れにしても、各器官をバラバラにして並べてみても、役に立たないスクラップでしかありません。真髄を取り出すことができるものなら、そうして真理に近づく事もできるでしょうが、それも出来ないので宗教という形を取ったのかとも思います。こういう事は科学的に証明のしようがないというのが正直なところです。

2012年8月11日土曜日

神を信じてない人は関係ないのでは?果たして?

そうですよ!信じてなくて結構ですよ!貴方の否定する神の概念は棄てて頂いて一向に構いません!寧ろその方が話は早いです。否定してるものを棄てるとは難しいですよね!?
ここで述べる事は特定の神を信じる、或いは契約した人達のその神のことです。神が如何なるものかはそれから考えても十分間に合います。無神論者が注意しなくてはならない点は、自分は何をどの部分を否定しているかを明確にしておくべきと云うことです。有神論においても同じ事が言えます。定義の曖昧な概念の有無を議論する事は不毛な事でしかありません。ただ、神が存在することからしか考えられないという事ほど非自立的な思考はありません。これから述べる神の前の人間は自立を志向する者達しかいません。

2012年8月6日月曜日

神名の秘匿について

編集痕という考え方と密接に関係あることなんですが、神名について少し考えてみます。ユダヤ人の先祖は神名に普通名詞(複数形)に加えて固有名詞を追加して並べ称し、尚且つこの固有名詞をモーセの十戒で禁止されているからというのが表向きの理由でしょうけれど、この固有名詞を直接言うことが出来ない事になっています。何故その禁止事項があるのかについて説明は明確にはされていないようです。この固有名詞は元来極めて本質的な項目で、古代のユダヤ人の祖先にとっては敵、部外者に聴かす訳にはいかない最大極秘事項であることは間違いなかったでしょうから十戒に列記される事とは表裏一体の事だったのではないでしょうか。この固有名詞は三人称として呼んで貰う為のものであった筈ですが、これほど目的に叶わない固有名詞も他にはないでしょう。それもこの固有名詞の由来がはっきりしないとは言え、神自らモーセに明かした名前がその後一向にその名前で呼ばれたためしがないというのはどう言う理由によるのでしょううか。明かされた名前は呼ばれてないのではなく実はもう既に呼ばれていたのではないでしょうか。我々がそれに気が付かなかっただけではないでしょうか。ユダヤ教ではこの神名に現れた神の本質=固有の神を選択したことが極めて重要だったのですが、一般名称で済ませているキリスト教、イスラム教などの一神教とは一線を画するものと言えます。多くの研究者がユダヤ教、キリスト教、イスラム教を一括りの一神教として扱ってしまう不注意をおかしているのですが、同じ神を信仰しているのに争いが絶えないのはなぜかなどととんちんかんな疑問を呈しているのを散見しますが、愚問というしかないのです。神名はユダヤ人の祖父から受継いだ固有の譲れない財産なのです。また、固有名詞の方を直接呼ぶ事を避けて呼び慣わしている言い換えの名詞の一つは、より人格的になっており人格神としての性格を濃くしています。

2012年7月26日木曜日

編集痕

宗教はいつの時代でもそうなのだろうか?苛烈な宗教改革の波を掻い潜って来てる様なのだ。それはユダヤ教とて同じ事だったのではないだろうか?どこでそれが解るだろうか?宗教改革はそれ迄の否定を込めている筈ですから文書的には従来の表現を殺さず生かさずの編集をしながらどのようにか新たな主張をしようかと編者は工夫してる筈でしょう。
その代表的な例として神名があります。神名はElohimやYHVH等いくつかの言い方で表れて特にElohimとYHVHは文法指標の数が一致しない等の錯綜があります。何故そうなのかは謎としか言いようがなないのですが、ひとつの推論としてトーラーの存在意義から考えて、これに合理的な説明をする事は狭い解釈に押込めかねないと考えます。即ち、Elohimの複数形は尊厳の複数だ等の説明はヨーロッパの言語事情を説明するために提出された概念で単なる思いつきと言うしかありません。/続く

2012年7月25日水曜日

トーラーの構造的捉え方

トーラーはかなりしっかりした構造を持っていて、読み手がそれを見逃すと忽ち時代錯誤な迷路に足をからめとられます。常に各所に構造を決めるキーワードを作り、それらの緊張関係を作っていますから、物語を平板な捉え方をすると、古代人の作った稚拙な作り話に終わってしまいます。先程のキーワードは幾つかのキーワードとも緊張関係を作っていますから、かなり立体的な構造物の如くになると思います。

閑話休題

これはオランダの考古学者エレンファンウォルデ女史の画像です。
女史の説がこれからの聖書学の狭い殻を破る起爆剤になるかもしれません。私は期待してます!
女史は創世記の最初にある天と地を創造した(Bara')と云うところを、古代セム語諸語を研究して、天と地を分けたと云う意味ではないかと提案したのです。確かに、この創造したと云う動詞は神を主語にしてだけ現れる。他に作る系の動詞は幾つかあるので、謎とされてきたのです。神が作るのだから動詞も違うのだ、と云う説明で今までゴマ化していた訳です。しかし、トーラーの書き方からして書かれた時の意味と時代が下った時点の意味が変わったとしてもおかしくはないので、女史の提案は唐突でもないと言えます。

2012年7月24日火曜日

トーラーを読むと云う事

トーラーに接する場合に注意すべき点があるように思います。それは「創世記」がその題名を持つからと言って、それを鵜呑みにして、世界の始まりが書いてあると思ったら、貴方は原理主義や福音主義の餌食になり果てるのがオチです。古代の人が宗教に如何なる思いを込めて後代に伝え残そうとしたものがあったのかを考えてみた方が早いです。古代は古代なりにその前からの伝承を持ち、それらを元に利用して新たな主張を盛り込もうとしたと言うしかありません。新たな主張をする際にはは現代人好みの抽象的な言葉は使わずに皆の衆がよく知っている物語、言葉を使った方が解りやすいわけです。そう言う訳で、では具体的にどの部分にそのようなことが現れているかを見て行こうと思います。こう云うのも解釈的理解と言うべきでしょう。ただし、これから申し上げることは私の読み方です。トーラーは自立した私の、自立した貴方の読み方をのみ許します。トーラーは私の、貴方の挑戦を受け付けます。従属的な読み方を受付けません。他人の解釈は役に立ちません。必要ないのです。それぐらいの気持ちでトーラーには接しなさいよ!ということなんです!ここがトーラーの根源的なテーマでもある訳です。そこを踏まえますと、トーラーが何を目指しているかがスッキリ見えて来ますよ!

2012年7月23日月曜日

兄弟でも何でもありませんから!

私達はユダヤ教の聖典「トーラー」をキリスト教徒の言い方に倣い、旧約聖書=old testamentなどと呼び捨て、宗教の剽窃を働き、概ねゴミ箱に放る手順を取っているに等しいにも拘らず、イエスの出現をそのトーラーが予言していたなどと恰もその正統性を主張するという矛盾を臆面もなく曝け出しているのです。 新約、旧約などとも最早言う必要はありません。新約聖書なんて言うのも止めたらどうですか?旧約なんて言い方が失礼じゃないですか!?個人の伝記としてイエス伝とでも呼び変えて下さい。ご自由にどうぞ!
袂はとっくに分かっているのに未だユダヤ教に未練があるんですか?どなたか?兄弟と仰いましたが一方的にそんな風に言われても…兄弟でも何でもありませんから!今は縁を切ったアカの他人ですから!