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七井誓
ダイナミック トーラー
宗教は何故か何時も迷路の如しです。恰も救いの手を差し伸べているフリをしながら結局苦しむのは救いを求めている人自身です。何故そんな事に?少しこんがらがった図式を解きほぐして見ましょうか?
2017年4月20日木曜日
2012年10月14日日曜日
例えばノアの方舟
| ノアの方舟の方舟の原文は、年代が下ってモーセが赤子としてナイル川に籠に入れられ流され難を逃れましたが。その籠と同じ単語でした。と言う事は、ノアの方舟のエピソードはモーセが民を引き連れてエジプトを脱出するストーリーにリンクしながら伏線を張っていたようです。ノアが逆境にあったときそれから脱出する方法はモーセのエジプト脱出へと引き継がれているように見えます。【追加】ノアの物語は純粋に全生物の生存の目的を語っているだけである。何にも前に生存のが優先するとの主張があるのです。出エジプトの意味は命辛々だったと言うことはノアの時と同様であると言うことでしょうか?ヘブライ人達は何もなし得てないと言う状態だったのでしょうね? |
例えばバベルの塔の物語
トーラーはトーラーなりの構造で示したかったようです。人に堂々と生きなさいと言っています。それを言葉、概念で直接言うのではなく、ある概念を巧妙に否定する方法で宣言、主張するのです。例えばバベルの塔の物語は塔を作ったことと人が散らされたことの因果関係を述べたものではないのです。大事な点は、人が塔を作ることによって神に近づこうと目論んだことに対して否定したのです。神は天には居りませんよ。高さを目指しても君らの力にはなりませんよ。お門違いもいいところですよ!と言われてるようなものです。警告だったのです。そう言う方法で聖書は構造を作って語りかけているのです。そう言う手法はこれから聖書をもっと読み込んで行くと見つかると思います。自分から期待しているところです。神は、世界創造の仕事を自らの発意に基づいて行い、六日間働き、最後の7日目に出来上がった作品を見て何と良い事かと満足しました。これは誰の為でも無い、自分の仕事をしたと言う事です。ところがヘブライ人たちがエジプトで奴隷生活に身をやつしたこととの落差に或主張を見出すことが出来そうです。エジプトでの奴隷生活と言うのは人の本来の生き方とはかけ離れていた為モーセはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を思い起こさせて民を鼓舞するわけです。物語ではモーセを通して神は民に伝える形にしています。本来の労働、生きるとは何かを思い起こさせようとしています。聖書を読んでもどこからどこまでが歴史的事実であるのか、フィクションなのかは解りません。宗教的な主張に従ってまとめられていると言うしかありません。
2012年10月13日土曜日
最近の会話
神の世界の創造というのは一応、自ら目論んで分析し、又は分析して目論んで、創造してその結果満足するというサイクルを作るんですね!?
古代の書籍トーラーは古代人の古風な且つ稚拙な思考枠から抜け出て居ないと言うレベルのものかといえば、私はどうもそれは違うような気がしてます。トーラーを維持した個人乃至集団はかなり洞察力の優れた、構想力に優れた存在だったと考えています。洞察力を何がしかの構想力に基づいて宗教的に翻訳したのがユダヤ教と言う事のようです。今の研究者は言葉=ヘブライ語文脈を追いかけて、ストーリーの骨格とか構造を解明する態度に欠けるところがあると感じます。構造解析は古代人の考察の中で極めて効率の良い秘匿方法である訳です。秘匿とは言いたくないと言うことではなく、逆に最も重要事項であると言う事の為にした事である思います。重要事項であった為に秘匿したのではないでしょうか。
最近、マルクス資本論を読みたくなりましたので娘にしまってあったところを聞いて出してもらう依頼をしたところです。マルクスは想像以上にトーラーを下敷きにしているのではないかと思い至ったのです。トーラーは明らかに労働を特別な位置付けをしています。また、トーラーの中の出エジプト記という項目はイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放し脱出するストーリーですが、その自立の過程がまるで階級闘争そのものとして描かれるのですが、日本の左翼は聖書なんか殆んど読まなかったでしょうから、どこがどう関連しているか想像もつかなかったのではないでしょうか。トーラーの冒頭は、神が主人公ではありますが、やった事と言えば、純然たる労働そのものです。労働の理想型とでも言っても良いかと思いますが。そんなわけで、薄々は分かっていたのですが、どう関連してるか調べます。マルクスの祖父は確かユダヤ教のラビだった筈なので。マルクスがプロテスタントに改宗したのは6〜7才くらいの頃ですが、理由は解りません。自分から洗礼を受けたとは考えられませんが、プロイセンという土地、国、時代的背景もあったのでしょうか。知りたいところではあります。
宗教は麻薬と言う理論?は中国共産党がそのまま剽窃、利用してチベットやウイグルの弾圧を行なってますね。毛沢東がチベットを解放すると宣言した理屈はキリスト教の福音主義そのままです。余計なお節介でしかありません。 企画から労働の一貫性が眼目のトーラーなので正に自営業者の為の宗教と言えるかもしれません。
階級形成とは労働の贖いと言っても良いくらいです。
宗教お宅たちは神様が存在するなどの証拠を例示すると、ああ!やっぱり神様は居るんだ!とか言って、歓びます。そういうところが妄信性のキーワードになってしまうのかと思います。また、某君のような頭の錆付いた人間は、神なんて居ないんだから信じないよ!と到って単純です。普通の人間ではありますが。思考は限りなく続くのだという事には耐えられない頭脳を持っています。居る居ないことを根拠に神を語ってるんじゃ無いんですけどね。
マルクスも子供の頃にプロテスタントに改宗してるので、旧約聖書として読んでいるのは間違いないでしょうが、何処まで読み込んでるかですよね!? 資本論にトーラーの筋目を読む!果たして巧く行くかは解りません。私は当てずっぽうなところがありますので、一寸怖いです。何故当てずっぽうなのかと言いますと、自分ではハングリーな「感」とでもいうか、いつも思考の続きを考えたいと思ってるんでしょうね。
ユダヤ人は安息日を守ってきたと言うことを聞いた事がありますでしょうか?日月火水木金と働いて労働して最後の七日目土曜日に休むと言う事ですが、トーラーで神が創造の行為とそれに満足して休んだと云うエピソードを記憶して宗教的に定式化したものですが、私はこれはユダヤ人特有のジョークだと思ってます。創造=労働の方がどちらかと言えば重要な筈なんですが、休んだ安息日を一義的に記念すると云うネガポジの関係にして記念するんですね!? 神名を門外不出にしたところ自分達もなんだったか忘れてしまったと言う事にした理由としてモーセと云う人物に託した契約でみだりに神の名を唱えるべからずという項目がある為としてますが、これも明らかにジョークですね。意味を辿って行けば解る筈のものなんです。但し、かなり重要で本質的な意味を担ってるので、秘匿に値するものなんですが。YHVHは固有名詞として位置付ける方がいますが、それ以上の極秘事項です。どうしても漏れ出してしまうのならあのモーセに伝えた通りだと言えば納得して貰えますかと言う事でしょうか。あれこれ喋られては困ることなんですよ。民族的な財産ということなんです。 マルクスの労働の定義はプロテスタンティズムの枠で考えられている可能性はありますね。何故改宗したのか?父親の影響があったんでしょうね。プロシアの国情にもよるかもしれませんね。亡くなった廣松渉あたりが詳しそうですが… ユダヤ人は十人集まれば十個の意見。誰もがユダヤ人でありながら各々は他の同胞と同じ意見を持つことを酷く嫌います。この性格は自分が世界の創造に参加しているという意識が根強くあるからです。ひとと同じ考え方をするのは恥ずべき事と思ってるんですね。何をどうしようとやってる事は自信たっぷり堂々と、俺は!俺は!で喧々諤々、絶対に譲らない!譲るもんか!で纏まるものも纏まりません。それも、皆真剣なんですよ。冗談で茶化す余地なんかない。 考えること、企てること、行動することは同じジャンルのことなんですね。世界の豊富化に参加してることになってる訳です。そして最後に作ったら満足することというのも必ず入ってます。 世界(地)というのはまず渾沌であり、分析して企画し、創造して満足するというサイクルを作るんですね!? もし、今度の資本論などを読んだ後にフォイエルバッハ等も手を伸ばした上で、やろうと思い付いてることは、ユダヤの先人は疎外の概念を既に知っていたらしい事を調べたいと思っています。寧ろそれがテーマだったかも知れないのです。何故神の登場か?神は「完全労働、非疎外労働(私の造語)」の象徴なんですよ!?無疎外労働と言い換えても良いんですが。 万が一、ホテルで腹上死トラブルが発生した時は遺体をホテルから運び出して路上に行倒れのように放置してから関係者に通報すると聞いたことがあります。この方が家族などがショックを受けにくい配慮と聞きました。 もし、力付きたら空報でも打ってから倒れて下さい。枯れ葉の一枚でも島村兄の上に舞い降りるようにと祈りつつ黙祷を捧げさせていただきます。でも、来年同じことが出来るとは限りませんよ!程々にして下さい。 昨夜、資本論11分冊のうち欠けていた第一分冊を娘が取り寄せ購入してくれまして、全巻揃いました。明日から資本論読破敢行スタートです。 島村兄は淫行と謙遜して言われますが、トーラーに登場する神と島村兄との共通点があります。それは敢えて名付けるならば非疎外労働とも言うべきものです。非疎外労働はその過程のうちどこが欠けても立ちどころに疎外的状態に陥ります。これは、大袈裟でも何でもありません。どうか統合力を高めてお励み下さい。 トーラーには非疎外労働の象徴として創世記冒頭の「神」を置き、疎外された労働の象徴としてエジプトで奴隷に転落した「イスラエルの民」を置いてるわけですね!?自己の充足感なしにどんな労働も完結しません。次回に備えて休養を十分お取りください。 トーラーに同じものが見つかることを期待もしませんが、原初的な根源的な警告音の響きが聴けたらと思い、更に従来の左翼が感じていた疎外論も含めて批判的に修正加工出来れば、解放の論理の新たな修正が出来ないものかと夢想します。 その為には、日本の思想が行き詰まってる状態を左右から打開したくもあります。日本の状況は余りにも遅れていると言うか発想が貧弱です。一人の天才に、一つの党派に押し付けるのは不幸と言うしかありません。と、感じます。 たったこの前の戦争敗北に対する共有感を持てないのが日本人なんですよねえ!国家と構成員との関係がヨーロッパアメリカ人の捉え方とだいぶ違ってたようですね。企業の所属感にも諸に現れてしまってますが、これなんかも日本では疎外は感知出来ない仕組みになってるんですかねえ!所属感の方が甘く居心地が良く優先してるようです。折角、疎外と翻訳された概念を有したのですから出所を良く理解して定着させたいものです。
最近、マルクス資本論を読みたくなりましたので娘にしまってあったところを聞いて出してもらう依頼をしたところです。マルクスは想像以上にトーラーを下敷きにしているのではないかと思い至ったのです。トーラーは明らかに労働を特別な位置付けをしています。また、トーラーの中の出エジプト記という項目はイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放し脱出するストーリーですが、その自立の過程がまるで階級闘争そのものとして描かれるのですが、日本の左翼は聖書なんか殆んど読まなかったでしょうから、どこがどう関連しているか想像もつかなかったのではないでしょうか。トーラーの冒頭は、神が主人公ではありますが、やった事と言えば、純然たる労働そのものです。労働の理想型とでも言っても良いかと思いますが。そんなわけで、薄々は分かっていたのですが、どう関連してるか調べます。マルクスの祖父は確かユダヤ教のラビだった筈なので。マルクスがプロテスタントに改宗したのは6〜7才くらいの頃ですが、理由は解りません。自分から洗礼を受けたとは考えられませんが、プロイセンという土地、国、時代的背景もあったのでしょうか。知りたいところではあります。
宗教は麻薬と言う理論?は中国共産党がそのまま剽窃、利用してチベットやウイグルの弾圧を行なってますね。毛沢東がチベットを解放すると宣言した理屈はキリスト教の福音主義そのままです。余計なお節介でしかありません。 企画から労働の一貫性が眼目のトーラーなので正に自営業者の為の宗教と言えるかもしれません。
階級形成とは労働の贖いと言っても良いくらいです。
宗教お宅たちは神様が存在するなどの証拠を例示すると、ああ!やっぱり神様は居るんだ!とか言って、歓びます。そういうところが妄信性のキーワードになってしまうのかと思います。また、某君のような頭の錆付いた人間は、神なんて居ないんだから信じないよ!と到って単純です。普通の人間ではありますが。思考は限りなく続くのだという事には耐えられない頭脳を持っています。居る居ないことを根拠に神を語ってるんじゃ無いんですけどね。
マルクスも子供の頃にプロテスタントに改宗してるので、旧約聖書として読んでいるのは間違いないでしょうが、何処まで読み込んでるかですよね!? 資本論にトーラーの筋目を読む!果たして巧く行くかは解りません。私は当てずっぽうなところがありますので、一寸怖いです。何故当てずっぽうなのかと言いますと、自分ではハングリーな「感」とでもいうか、いつも思考の続きを考えたいと思ってるんでしょうね。
ユダヤ人は安息日を守ってきたと言うことを聞いた事がありますでしょうか?日月火水木金と働いて労働して最後の七日目土曜日に休むと言う事ですが、トーラーで神が創造の行為とそれに満足して休んだと云うエピソードを記憶して宗教的に定式化したものですが、私はこれはユダヤ人特有のジョークだと思ってます。創造=労働の方がどちらかと言えば重要な筈なんですが、休んだ安息日を一義的に記念すると云うネガポジの関係にして記念するんですね!? 神名を門外不出にしたところ自分達もなんだったか忘れてしまったと言う事にした理由としてモーセと云う人物に託した契約でみだりに神の名を唱えるべからずという項目がある為としてますが、これも明らかにジョークですね。意味を辿って行けば解る筈のものなんです。但し、かなり重要で本質的な意味を担ってるので、秘匿に値するものなんですが。YHVHは固有名詞として位置付ける方がいますが、それ以上の極秘事項です。どうしても漏れ出してしまうのならあのモーセに伝えた通りだと言えば納得して貰えますかと言う事でしょうか。あれこれ喋られては困ることなんですよ。民族的な財産ということなんです。 マルクスの労働の定義はプロテスタンティズムの枠で考えられている可能性はありますね。何故改宗したのか?父親の影響があったんでしょうね。プロシアの国情にもよるかもしれませんね。亡くなった廣松渉あたりが詳しそうですが… ユダヤ人は十人集まれば十個の意見。誰もがユダヤ人でありながら各々は他の同胞と同じ意見を持つことを酷く嫌います。この性格は自分が世界の創造に参加しているという意識が根強くあるからです。ひとと同じ考え方をするのは恥ずべき事と思ってるんですね。何をどうしようとやってる事は自信たっぷり堂々と、俺は!俺は!で喧々諤々、絶対に譲らない!譲るもんか!で纏まるものも纏まりません。それも、皆真剣なんですよ。冗談で茶化す余地なんかない。 考えること、企てること、行動することは同じジャンルのことなんですね。世界の豊富化に参加してることになってる訳です。そして最後に作ったら満足することというのも必ず入ってます。 世界(地)というのはまず渾沌であり、分析して企画し、創造して満足するというサイクルを作るんですね!? もし、今度の資本論などを読んだ後にフォイエルバッハ等も手を伸ばした上で、やろうと思い付いてることは、ユダヤの先人は疎外の概念を既に知っていたらしい事を調べたいと思っています。寧ろそれがテーマだったかも知れないのです。何故神の登場か?神は「完全労働、非疎外労働(私の造語)」の象徴なんですよ!?無疎外労働と言い換えても良いんですが。 万が一、ホテルで腹上死トラブルが発生した時は遺体をホテルから運び出して路上に行倒れのように放置してから関係者に通報すると聞いたことがあります。この方が家族などがショックを受けにくい配慮と聞きました。 もし、力付きたら空報でも打ってから倒れて下さい。枯れ葉の一枚でも島村兄の上に舞い降りるようにと祈りつつ黙祷を捧げさせていただきます。でも、来年同じことが出来るとは限りませんよ!程々にして下さい。 昨夜、資本論11分冊のうち欠けていた第一分冊を娘が取り寄せ購入してくれまして、全巻揃いました。明日から資本論読破敢行スタートです。 島村兄は淫行と謙遜して言われますが、トーラーに登場する神と島村兄との共通点があります。それは敢えて名付けるならば非疎外労働とも言うべきものです。非疎外労働はその過程のうちどこが欠けても立ちどころに疎外的状態に陥ります。これは、大袈裟でも何でもありません。どうか統合力を高めてお励み下さい。 トーラーには非疎外労働の象徴として創世記冒頭の「神」を置き、疎外された労働の象徴としてエジプトで奴隷に転落した「イスラエルの民」を置いてるわけですね!?自己の充足感なしにどんな労働も完結しません。次回に備えて休養を十分お取りください。 トーラーに同じものが見つかることを期待もしませんが、原初的な根源的な警告音の響きが聴けたらと思い、更に従来の左翼が感じていた疎外論も含めて批判的に修正加工出来れば、解放の論理の新たな修正が出来ないものかと夢想します。 その為には、日本の思想が行き詰まってる状態を左右から打開したくもあります。日本の状況は余りにも遅れていると言うか発想が貧弱です。一人の天才に、一つの党派に押し付けるのは不幸と言うしかありません。と、感じます。 たったこの前の戦争敗北に対する共有感を持てないのが日本人なんですよねえ!国家と構成員との関係がヨーロッパアメリカ人の捉え方とだいぶ違ってたようですね。企業の所属感にも諸に現れてしまってますが、これなんかも日本では疎外は感知出来ない仕組みになってるんですかねえ!所属感の方が甘く居心地が良く優先してるようです。折角、疎外と翻訳された概念を有したのですから出所を良く理解して定着させたいものです。
2012年10月8日月曜日
イヴ(ハヴァー)は何が間違ったのか?
大事な事すら人に伝えられない事か
口だけで伝える事の不安定さ正確には伝わらないと言う警告か
文字に定着させる為の伏線か
自分の意思が確立出来ないと言う罪悪のことか
口だけで伝える事の不安定さ正確には伝わらないと言う警告か
文字に定着させる為の伏線か
自分の意思が確立出来ないと言う罪悪のことか
トーラーの存在力
トーラーを読むとは、それに対する疑問なくして、表出部分に触れることは出来ません。表出部分とは古代のユダヤ人の先祖たちの一番言わんとしていることに触れることです。そうすると、トーラーにはあちこちに矛盾点が見つかります。何故矛盾点が見つかるのでしょうか?一見、矛盾点と見えることは現在の我々の硬い頭に巣食ってる観念の為かもしれません。或いは古代のユダヤ人の先祖たちが言わんとした事がわからないので、或いは古代のユダヤ人の先祖たちが敢えて注目して欲しい点に当時の知恵に基づいてマーカーをつけたか、或いは意識の儘に綴ったのでしょうか?
2012年10月6日土曜日
階級闘争論と相入れないだろうか?
労働者階級形成とは労働の贖いと言っても良いくらいです。その原型は出エジプト記に見る事ができるかと思います。労働者階級なるものが存在したと言う訳ではなく、労働の形態が余りにも神の意思からかけ離れていたために、モーセによってイスラエルの民が自覚して行く過程が出エジプト記、申命記、民数記である訳です。こんな事言うのは神への冒涜だの声を荒げる輩が出て来そうですが、民の自立には紆余曲折、失敗の連続を潜り抜けなければなりませんが、この為には強い意思と一貫性、決断力、計画性、持続力、組織力そして知恵が必要です。それをモーセがやり遂げた物語ということであるわけです。単なる民族の由来物語、神は存在するのだ式の物語に押し込めるのではなく極めて普遍的な課題を担っているものとして理解されなければならない筈です。民族史の一面性を日本に幾ら当て嵌めたとしても、それからは十分はみ出ししている物語になっていると思います。
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