2012年9月30日日曜日

アブラハムとロトについて

選択の自由と言うのは一見自由ではあるけれど、欲望も引き連れて行くことを同時に言ってることなので忘れてはならないことであるようです。この事はアブラハムとロトとの関係にも当てはまるようです。ロトは選択の自由を与えられたのですが、自分の欲望の在り方に気づいてなかったようです。直前で気が付いて助けられますが、/続く

2012年9月27日木曜日

Elohim(複数)の件⑵新たな提案

何故神は複数なのか?は元来そういうものとして有ったと云うのが答えと云うしかないのでしたが、じゃあ何故動詞が三人称、単数なのかという疑問に対しては明確には答えられないけれど、苦しまぎれにはElohimは尊厳の複数論の向うを張って「範疇の複数」という概念を提案します。こう云う例が他にもあると良いのですが、コンコルダンスでは限界があるようなので、もっとトーラーを読まないと分かりません。
「範疇の複数」と言う言い方も若干一神教に擦り寄った表現ですが、この際、神は一つではなかったと言うしかありません。その証拠と言えば、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言う表現が何度も出て来ます.其々に立ち現われた神々だった訳です。この神々は全て一貫性があるのだと言う宗教的な主張、表出であったということです。

骨格を知る

どの様な書籍を読む場合にもその書籍の一字目から最後までソックリ憶えると云う読み方はしないものです。読んだ直後はその様にその通り受け入れるとしてもその後は何か特徴を捉えて永く脳に保存していくでしょう。その特徴とはキーワードを決めて憶えたり構造、物語性、展開を憶えたりしている筈です。後になって細部を思い出したり、読み返して調べたりするものです。ですから、読み手は記述されたものの骨格をも同時に意識しながら読むことになります。そうでなければ、書いてあることがバラバラになって何を言わんとしているか分からないことになります。行間に何も書いてない単なる空白ではない訳です。その骨格を捉えることも読み手の重要な働きになる訳です。

トーラー文学の表現方法の特徴

トーラーは宗教的聖典の位置を占めているものの、伝承文学の彩を濃厚に残したままの文学です。拙速に解釈に走るのを保留してでも文学としての吟味をしておくことの方が豊かな表現力を味わうことができるものです。文学としての味わいを抜きに本当に表現したい部分には辿り着けないものと言えるでしょう。トーラーはトーラーなりの表現技術を持っている筈です。表現技術と言っても仕掛けと言っても良いものです。場合により、トリックと言うべきものもあります。表現したい事が当時の従来の通常の表現技術では追いつかない場合は相当無理をしたのでしょう。

多次元方程式

トーラーの織物は縦糸、横糸の他、斜行する糸もあり織方も様々です。その構成を解きほぐすのはその最初の創世記の宣言文に糸口が文字通りみつけることが出来ます。 創世記冒頭は単なる神の世界創造の物語ではありません。よく考えてみてください。誰がこの世界の始まりを見て来たと言うのですか?子供にしか通用しない話しを大人が真に受けてどうするんですか?子供でもいずれは変だなと思うことです。そこでトーラーを編み出した記者達の気持ちになって何を訴えたかったのかを察してやろうじゃありませんか。世界創造の物語の様に作っておいてそこに仮託して何かを言ってませんか?それ位の知恵は働かせようじゃないですか!?さて、神は最初に何をしたと書いてあるか?その前にこの時の神は複数形Elohimです。一般名称と言えます。次に、従来は「創造した」と訳されているところの目的語は先に天であり、その後に地となっています。日本語訳の多くは天地と一括りに表現している場合が多いと思いますが、配慮の足りない訳と言うしかありません。トーラー記者は明らかに別のものとして表現し、後先を意識しているのに対して、日本語訳では恐らく天地という言い慣わしが元々あったものを杜撰な感覚のままに援用したと云うことでしょう。やはりトーラー記者の意図を推し測る気持ちがないと後代に残すというと云うことが半減してしまうことになるので先立って事を進める者は心しなければならない事だと思います。但、最近は伝統的に「創造した」と訳して来た語をオランダの考古学者の提案により「分けた」と訳す可能性もでてきました。しかし、この問題は決して混乱の原因にはならず寧ろ神の行為として適切であるという整理の仕方も考えられるのです。

2012年9月15日土曜日

バベルの塔試論

バベルの塔の崩壊と人が散らされた事に因果関係があるようにとらわれてしまうと少し見えなくなって来ます。寧ろ、塔と言う高いものを建てると言う物理的な行為を否定されたという点に着眼しなければならないという事ではないでしょうか。神というものはそういったものではないということだったのだと考えておくべきでしょう。だからと言って、神は愛だとか抽象的なものとして主張するものでないことは当然です。。