2012年8月20日月曜日

循環構造

トーラーを含めてタナフ全体は恰も人の体のようです。各々の体の部分が密接に繋がっていて、部分は他の部分を支えて全体が成り立っているという関係にあります。
その典型的な例として、/続く

2012年8月17日金曜日

オーガニック

人は自らのことを直接人に則して直接的に考えれば良いものを、どうもそうは行かないらしいのだ。一つは神を介してもう一つは歴史を介して、更に文学を介して考えて来た経緯もあった。勿論直接的な人間関係を介してでもそうだし、何れにしても何か媒介物があった方がと言うかなければと言った方が良いのか理解するためには良いらしいのだ。ただ、媒介物というのは理解のための手段としてあったのであって、中にはとても実体と言える様なものではないものも混ざっている場合があった訳です。それは太古の人が実体的に考えていた可能性がありそれらを疑問に思ったり否定したりして、更には視点を変更する方にシフトしなければならない場面に遭遇したこともあったでしょう。又、そう言った種類の事なんだけど一寸、正確にはこういう事なんだよと仲間に伝えたかった事もあったのではないだろうか?!

人は有機体ですから、各器官が巧みにお互いの役割を補完しながら全体を構成し、各器官も生きているという力学バランスを形作っています。どの器官を取り出して見る事も出来ますが単なる寄せ集めではない、他の器官を生かす為にその器官が存在するという様に存在しているのです。
何れにしても、各器官をバラバラにして並べてみても、役に立たないスクラップでしかありません。真髄を取り出すことができるものなら、そうして真理に近づく事もできるでしょうが、それも出来ないので宗教という形を取ったのかとも思います。こういう事は科学的に証明のしようがないというのが正直なところです。

2012年8月11日土曜日

神を信じてない人は関係ないのでは?果たして?

そうですよ!信じてなくて結構ですよ!貴方の否定する神の概念は棄てて頂いて一向に構いません!寧ろその方が話は早いです。否定してるものを棄てるとは難しいですよね!?
ここで述べる事は特定の神を信じる、或いは契約した人達のその神のことです。神が如何なるものかはそれから考えても十分間に合います。無神論者が注意しなくてはならない点は、自分は何をどの部分を否定しているかを明確にしておくべきと云うことです。有神論においても同じ事が言えます。定義の曖昧な概念の有無を議論する事は不毛な事でしかありません。ただ、神が存在することからしか考えられないという事ほど非自立的な思考はありません。これから述べる神の前の人間は自立を志向する者達しかいません。

2012年8月6日月曜日

神名の秘匿について

編集痕という考え方と密接に関係あることなんですが、神名について少し考えてみます。ユダヤ人の先祖は神名に普通名詞(複数形)に加えて固有名詞を追加して並べ称し、尚且つこの固有名詞をモーセの十戒で禁止されているからというのが表向きの理由でしょうけれど、この固有名詞を直接言うことが出来ない事になっています。何故その禁止事項があるのかについて説明は明確にはされていないようです。この固有名詞は元来極めて本質的な項目で、古代のユダヤ人の祖先にとっては敵、部外者に聴かす訳にはいかない最大極秘事項であることは間違いなかったでしょうから十戒に列記される事とは表裏一体の事だったのではないでしょうか。この固有名詞は三人称として呼んで貰う為のものであった筈ですが、これほど目的に叶わない固有名詞も他にはないでしょう。それもこの固有名詞の由来がはっきりしないとは言え、神自らモーセに明かした名前がその後一向にその名前で呼ばれたためしがないというのはどう言う理由によるのでしょううか。明かされた名前は呼ばれてないのではなく実はもう既に呼ばれていたのではないでしょうか。我々がそれに気が付かなかっただけではないでしょうか。ユダヤ教ではこの神名に現れた神の本質=固有の神を選択したことが極めて重要だったのですが、一般名称で済ませているキリスト教、イスラム教などの一神教とは一線を画するものと言えます。多くの研究者がユダヤ教、キリスト教、イスラム教を一括りの一神教として扱ってしまう不注意をおかしているのですが、同じ神を信仰しているのに争いが絶えないのはなぜかなどととんちんかんな疑問を呈しているのを散見しますが、愚問というしかないのです。神名はユダヤ人の祖父から受継いだ固有の譲れない財産なのです。また、固有名詞の方を直接呼ぶ事を避けて呼び慣わしている言い換えの名詞の一つは、より人格的になっており人格神としての性格を濃くしています。

2012年7月26日木曜日

編集痕

宗教はいつの時代でもそうなのだろうか?苛烈な宗教改革の波を掻い潜って来てる様なのだ。それはユダヤ教とて同じ事だったのではないだろうか?どこでそれが解るだろうか?宗教改革はそれ迄の否定を込めている筈ですから文書的には従来の表現を殺さず生かさずの編集をしながらどのようにか新たな主張をしようかと編者は工夫してる筈でしょう。
その代表的な例として神名があります。神名はElohimやYHVH等いくつかの言い方で表れて特にElohimとYHVHは文法指標の数が一致しない等の錯綜があります。何故そうなのかは謎としか言いようがなないのですが、ひとつの推論としてトーラーの存在意義から考えて、これに合理的な説明をする事は狭い解釈に押込めかねないと考えます。即ち、Elohimの複数形は尊厳の複数だ等の説明はヨーロッパの言語事情を説明するために提出された概念で単なる思いつきと言うしかありません。/続く

2012年7月25日水曜日

トーラーの構造的捉え方

トーラーはかなりしっかりした構造を持っていて、読み手がそれを見逃すと忽ち時代錯誤な迷路に足をからめとられます。常に各所に構造を決めるキーワードを作り、それらの緊張関係を作っていますから、物語を平板な捉え方をすると、古代人の作った稚拙な作り話に終わってしまいます。先程のキーワードは幾つかのキーワードとも緊張関係を作っていますから、かなり立体的な構造物の如くになると思います。

閑話休題

これはオランダの考古学者エレンファンウォルデ女史の画像です。
女史の説がこれからの聖書学の狭い殻を破る起爆剤になるかもしれません。私は期待してます!
女史は創世記の最初にある天と地を創造した(Bara')と云うところを、古代セム語諸語を研究して、天と地を分けたと云う意味ではないかと提案したのです。確かに、この創造したと云う動詞は神を主語にしてだけ現れる。他に作る系の動詞は幾つかあるので、謎とされてきたのです。神が作るのだから動詞も違うのだ、と云う説明で今までゴマ化していた訳です。しかし、トーラーの書き方からして書かれた時の意味と時代が下った時点の意味が変わったとしてもおかしくはないので、女史の提案は唐突でもないと言えます。